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2011年5月8日 - 2011年5月14日

『星を追う子ども』についての、さらなる感想(ネタバレ無し)

大ファンである新海誠さんの最新作『星を追う子ども』を、公開初日に見に行き、感想をアップしましたが、もやもやとした気持ちを抱えたままでしたので、もう一回見て、自分の気持ちを整理してみようと思い、再度踏み込んだ感想を書いて見ました。


過去の作品と違い、良かったところよりも、(好きだからこそ)やはり残念なところが目につく印象でした。

過去の作品では個人制作出身ということで稚拙だと批判されることもある新海さんの特徴(個人的には好き)が、演出、作劇の上でむしろ効果的に機能していましたが、今作ではそれらがあらゆる意味で中途半端な効果を与えてしまっているように思います。

説明・描写不足であることも、単調で淡々としたモノローグや台詞も、動きが少なく一枚絵が多いことも、過去作ではテーマとも合い、演出として十二分に機能していたと思います。

また、過去作は、舞台が近未来やパラレルワールドであっても、ほとんど現実に近い設定であったので、たとえ説明・描写不足であっても、現実世界に生きている僕たち観客の想像力と「常識」が、描かれていることと、描かれていないことを補完する作用が上手く機能して、作品世界をより魅力的なものにしていました。

 

しかし、今作ではそれらのバランスが非常に悪くなってしまっているように感じます。

モノローグは減ったものの、単調な台詞回しは相変わらずなため、会話と会話の「間」の振れ幅が小さく、どこか一本調子で、緊張と緩和を有するべき旅の物語の展開を、平準化させてしまってるように感じました。
『秒速
5センチメートル』では淡々としたテンポの言葉は、むしろ演出上プラスになっていましたが、本作ではそうはなっていません。

 

また、現実に近い舞台では機能していた観客の想像力と常識による補完作用も、まったくの異世界アガルタでは、その効果を減じます。

アガルタの説明・描写が不足していることは、そこに生きるシンら登場人物の動機や心情の説得力を弱め、魅力をも削いでしまいます。
彼らの背景をきちんと踏み込んで描いていれば、シンらアガルタの人々の魅力は数倍に増したことでしょう。

全般的に登場人物たちの動機と行動の必然性が上手く描けていないので、彼らの人間としての魅力と説得力が弱まり、文字通りフィクション上の薄っぺらいキャラクターになってしまっている感があります。

過去作では、主体性の弱さ、積極性のなさ故に魅力を放ち、物語を紡いだキャラクターたちでしたが、今作のように異世界の深淵にまで命を賭して行くのに、動機や目的、主体性に説得力が弱ければ、作り物の話がより作り物っぽくなってしまい、よくある失敗作のように、「どこかの誰かさんのどうでもいい物語」を見せられている状況に近づいてしまいます。

 

次に、美術ですが、これはまさに新海作品というべき美麗なものであるものの、過去作ではさりげなく描写されていたものが、今作ではどや顔然として主張してしまっている点も残念でした。

おそらくこれは、個人制作から出発した新海さんが、徐々に力量のあるすばらしいスタッフが集ったことで、「今まで描きたくても描けなかったこと」が、本作では「描けるようになった」が故に、そうしたものを必要以上に詰め込んでしまった結果ではないか・・・と思うのです。

そのため、肝心の物語の根幹たる部分が(過去作と同程度に)描写不足なのに、枝葉たる装飾品が(過去作を大きく凌駕するほど)非常に多いというアンバランスさを生じさせています。

何度も言うように、過去作は現実に近い舞台であるため、現実世界に生きる人ならほぼ誰しもの心象風景にある、学校、路地、雑踏にビルなどの町並みや、山河に木々などの自然、乗り物や小物などを、現実から切り取ったのかごとく緻密に描くことで、物語における説得力の強度を増すことに成功していました。

 

しかし本作では、未知の異世界アガルタの根っこや幹が描かれていないので、枝葉をいくら書き込んで詰め込んでも、良くできた綺麗な作り物に感心する以上の効果を生んでいません。

また、詰め込みすぎたことで、場面転換もどこか急ぎ足で、観客を余韻に浸らせるような間も、過去作に比べ圧倒的に少ないです。

過去作では控えめだった音楽も、今作では、「はい、ここ、感動のシーンです」と、向こうから主張してしまってるかのように感じる場面がいくつかあり、個人的に少々気になりました。

 

尚、ジブリ(宮崎駿)へのオマージュ(パクリではない)は、客層の間口を若干広めたこと以上に、新海さんの優れた持ち味を、曖昧なものに薄めてしまったように思います。

ただ、本作は、このジブリっぽいという見た目のインパクトがあまりにも強烈(僕自身も初見では、スクリーンを見ながら、目の前の物語よりも宮崎駿作品の「巧さ」を再認識して感心してしまった次第)なので、その点が議論となることも多いようですが、ジブリ云々をまったく抜きにしても、作品として傑作と言い難い評価であることは、個人的に変わらないと思います。

さらに言えば、新海さんの作風が変わったので、過去作のファンが否定的になっているのではないか?・・・というのもおそらく間違っているでしょう。

新海さんは、変わっていないのです。


キャラクターや舞台に関して説明・描写不足であることや、比較的淡々とした台詞回し、積極性や主体性に乏しい主人公、有名作品などからのオマージュなど、新海さんは大きく変わっていません。

ただ、過去作では作劇の中で上手く機能したそれらが、今作では物語に対して齟齬を来たし、さらに大ぶりな枝葉が、幹を覆い隠してしまって作品のバランスを崩し、ちぐはぐなものになってしまったのだと思います。
描こうとしたものがとても魅力的であったが故に、非常に残念です。

 

・・・と、またも長々となってしまいましたが、大好きな、そして貴重なオリジナル作品を制作する監督ということで、生意気にも書かせて頂きました。
書きたくなるほどに気になって、何かを作り出してくれるという期待があるんですよね、新海さんには。
だから・・・うん、やっぱり、なんだかんだ言いつつも、それでも、それでも僕は、新海さんの作品を、きっと明日も明後日もその先も、やっぱりどうしようもなく待ち望むんだと思います。

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『星を追う子ども』を見てきたので、レビューというか、感想を。

昨日、5月7日、個人的に大好きな新海誠さんの最新映画である『星を追う子ども』を見てきました。

公開前から誰もが感じていたであろう、あまりにもジブリでジブリな雰囲気にとまどっておられた方も多く、新海さんの作風が変わってしまったのでは?
・・・という声もあったようですが、内容は今までの作品同様、「喪失」をテーマにしたもので、新海節はそのまま。その点は心配しないでいいと思います・・・が、大好きな新海さんの作品であるからこそ、個人的に言いたいことも色々と。
なので、今回はその感想を書きたいと思います。

ちなみにおもいっきり内容に触れておりますので、ネタバレがいやだという方は、以下の感想は、見ないことをおすすめします。

さて、公開初日と言うことで、映画館はほぼ満席。
いやがうえにも期待は高まり、緊張と期待の入り交じった気分のまま、物語が始まるのを待ちました。

暗いスクリーンが徐々に明るくなり、主人公の女の子、渡瀬明日菜(以下アスナ)が山の中のレールに耳をつけている場面が映し出され、物語はスタートします。

開始から約十分くらいは、このアスナが山の中を駆けたり、家に帰ったり、学校に行ったりする場面が描かれ、観客は、彼女が住んでいる町のだいたいの規模などとともに、彼女が山に秘密基地らしきものやお気に入りの場所を持っていたり、父親をすでに亡くしていたり、仕事が忙しい母親とはあまり一緒にいられなかったり、勉強や家事もしっかりできるけど、学校ではあまり友だち付き合いが出来ていないことと、そんな彼女の心の拠り所の一つが鉱石ラジオであることなどが分かると思います。
説明台詞やモノローグなどではなく、画面で主人公の背景を理解させるのは、結構よくできてるなぁと思いました。

この坦々と描かれるアスナの日常が、一匹の獣と少年の出現によって大きく変化しだします。

いつものように秘密基地に向かう途中の鉄橋で、アスナは大きな獣と遭遇するのです。学校の先生から熊が出ると言って注意されていたものの、それはアスナにとっても、そして観客にとっても、突如として現れたこの世ならざるもの感いっぱいのもの。
恐怖に立ちすくむアスナですが、そこにまた突如として少年が登場。アスナを物語の騎士のように守り、傷を負いながらも獣を倒したあと、高い高い鉄橋から飛び降りる離れ業をやってのけるいきなりの展開に、少々唖然。

その後、目を覚ましたアスナは、獣から右腕に傷を負わされたシュンと名乗る少年に、自らのスカーフで手当てをし、言葉を交わすのですが、地下世界「アガルタ」から来たというシュンは「僕は君に会うため生まれてきたのかも知れない」と言うカヲルくんばりの台詞を吐いたり、「祝福をあげる」という言葉とともにいきなりアスナのおでこにキスをしたりという展開に、初々しくいいシーンだなと感じる一方で、またも少々唖然としてしまいました。

アスナと別れたあと、星に手を伸ばしたシュンは、観客に示唆されていたように、死んでしまいます。
そのことを知らないアスナは、シュンと再会しようと秘密基地やお気に入りの場所に向かったり、彼の姿を探すのですが、願いはかなわず、寂しい気持ちを抱えていきます。そして、その後、彼女は自分のスカーフを腕に巻いた少年の死体が見つかったことを、連絡を受けた母親から聞かされ、大きなショックを受けます。

寂しく悲しい気持ちを抱えたままのアスナでしたが、産休となる担任の先生の代わりに来た森崎竜司(以下モリサキ)が、イザナミとイザナギの話を授業で述べた際、同じような地下世界・・・黄泉の国、そして死者の復活の伝承が世界中で語り継がれでいるとして、多くの例の一つに「アガルタ」を挙げます。

シュンへの想いを断ち切れないアスナは、勢い、放課後にモリサキの自宅を訪ね、そこで彼が研究している「アガルタ」のことや、彼の望み、そしてアスナにも生き返らせたい人でもいるのかい?と問われ、とまどいます。
モリサキからいくつかの興味深い事実を教えられたものの、アガルタへも、そしてシュンへ到達する術も持たない普通のこどもであるアスナ。しかし彼女は、帰宅後に、自分のお気に入りの場所に「鉱石」の光が瞬いているのを目撃するのです。

シュンだ!・・・そう思ったアスナは山を駆け、お気に入りの場所へ向かうのですが、そこにいたのはシュンにそっくりの少年、シンでした。
シンをシュンだと思うアスナの勘違いもあり、かみ合わない二人の会話は、いきなり現れた攻撃ヘリと三人組の特殊部隊(アスナには分からないが、観客にはそのリーダーがモリサキだと想像にたやすい)によって中断を余儀なくされ、追い詰められたシンは、シュンが鉄橋からアスナを抱えて飛び降りたように、アスナを抱えて、崖下へと飛び降り、地下世界、アガルタへと向かいます。

シュンが記憶喪失にでもなっているのかと疑ったりして彼を追うアスナと、地下世界への扉を探し、シンたちを泳がせながら追うモリサキたち。アガルタへの通路になる洞穴で、鉄橋で遭遇したような大きな獣と再びまみえ、それが古の神々が地上の汚れた大気に触れ、変化してしまったものとシンから教えられるアスナ。
シンとアスナは獣相手に窮地に陥るも、追いついたモリサキたちが獣を容赦なく始末することで一難去りますが、また一難。

アガルタへの鍵となる石(クラヴィス)をよこせよ!だめだ!とやり合いながらも、アスナを人質にしたモリサキが、彼女とともに扉の中へ。ここでモリサキがアガルタを調査する秘密組織の一員としての任務を事実上放棄して、特殊部隊の二人を置いてけぼりにしながら、扉が閉じようとするのですが、呆気にとられる特殊部隊員と違い、隙をうかがっていたシンは、その間隙を縫って扉の内へと滑り込みます。

閉じた扉の内側で再び対峙するシンとモリサキ。人質となったままのアスナ。

しかしここでモリサキは、あっさりとアスナを解放。
自らもマスクを脱いで、モリサキであることをアスナにも示します。

死んだ妻を蘇らせるという個人的な目的があるモリサキにとって、その大きな難関の一つであったアガルタへの侵入を、組織を出し抜いて行うことに成功した以上、シンとむやみに敵対することは無いと判断したのでした。

対してシンも、アガルタは入るのは難しいが出るのは簡単・・・なので勝手に出ろとばかりに、モリサキとシンを放って帰って行きます。

こうして残ったモリサキは自分の目的のために、そしてアスナもモリサキとともに、アガルタの深部へと、茫漠たる光景の広がる異世界での旅が始まるのですが・・・。

と、めっちゃ長くなりましたけど、ここまでが大体前半となります。

改めてこうして文字で書きますと、日常の中に突如として現れた異物によって、アスナは、非日常の世界へと誘われ、大きく物語が動いて、すごい展開になっているように見えるのですが、劇場で見ている時には、物語が動いている、始まった、始まっている!という感を受けることは、個人的にあまりありませんでした。

それは、唐突感、もっと具体的に言うと、登場人物も含めた物語や世界の「説得力」を、僕があまり感じることが出来なかったからだと思います。
特に後半の旅全体も含めて、主人公であるアスナの行動に対する原理が、説得力に弱いのです。

茫漠たる異世界・・・「命」を狙うような人外のものたちもいるような未知の世界で、一人母親を残してまで、アスナが旅立つことに対する説得力が弱いと感じるのです。

これを個人的により強めていると思われるのが、「ジブリっぽさ」です。

全体的な絵柄はもちろん、序盤から現れるミミという、まるでナウシカのキツネリス「テト」のような生き物とその設定。

飛行石さながらのクラヴィス。

マンガ版ナウシカやもののけ姫や、ラピュタなど、それらをあまりにも彷彿とさせすぎる情景や生き物たち。

先生の顔をしながら、秘密組織の一員で、「中佐」などと呼ばれたり、メガネかけていたりとか、やはり「ムスカ」的なモリサキ等々・・・。

正直、言えばきりがないほどで、どうしてもジブリ作品・・・宮崎作品がちらちらと頭をかすめるのです。

で、鑑賞中も自然とそうした宮崎作品が頭に浮かぶものですから、没入感が薄れ、同時にそれらと知らず知らず対比しちゃったんですね、僕は。

前半の登場人物たちの行動原理やその説得力なんか、クラヴィスが飛行石チックだし、少年と少女の邂逅と、未知なる世界への旅ということもあって、自然とラピュタなんかと対比しがちで、どうしても疎く見えちゃうんです・・・これはもう、ほんともう、ラピュタがあまりにもうまいから仕方ないんですけど、やっぱりもったいない。

空から落ちてきた謎の少女シータを受け止めた、炭鉱で働く少年パズー。自分の父親がラピュタを見たと言ったものの、嘘つき呼ばわりされ死んだという背景を持つ彼が、それぞれの思惑で飛行石を狙うドーラ一家に軍、そしてムスカらからシータを守ろうとしながら、敵であったはずのドーラ一家と手を組む流れ、そしてそこからラピュタを目指す彼の行動原理と説得力に対して、先に述べたように、母親を残してまで、危険な未知の世界の深淵へ進もうとするアスナのそれは、あまりにも脆弱に感じてしまうんです。

ですから、アスナは何をしたいのかがよく見えてこなかったり、共感しにくいことになってしまってて、自ずから、登場人物たちの魅力も減じてしまうことになっているように思います。

また、世界観の説得力も、見た目が非常に似てるナウシカ(マンガ版含む)やラピュタとかの宮崎作品に比べると、やっぱりかなり弱く感じられました。

このアガルタの現実という説得力を持つ描写がないので、真剣さがあまり伝わってこないのです。

『星を追うこども』でも宮崎作品や、ある意味ではそれらを上回っているとも言える美麗な背景美術とともに、地上世界、並びにアガルタという世界やそこに生きる人々、そしてその生活の一部なども描かれているのですが、どうしても表層的で、特にアガルタという滅び行く世界のリアルさというか距離感が伝わりにくいのです。

たとえばナウシカでは、滅び行く世界とそこに生きる人々の問題がしっかりと描かれているため、「この世界はこれこれこうなってて、こうすれば死ぬ、こうなれば死ぬ」ということが観客に提示されている分、その世界はファンタジーでありフィクションでありながら、また、超常の力が存在しながらも、現実により近い説得力を持ち、その滅びや死と向かいあっている世界に生きる人々の生活感や、命の重みや、必死さも増して感じられます。

対して『星を追うこども』では、背景美術や絵としてのアガルタ(および地上世界)は美しく緻密に描かれているものの、世界のルールとその限界・果て・・・滅びへと向かう世界での死への距離感とでもいうべきものがつかみにくく、どこまでいったら、どこまでしたら、この世界の人は死ぬのか、ルールを破ればどこまで本気で殺し殺されるのかというものや、ラピュタで言えば飛行石の力のような、フィクションによくある奇跡的・超常的な力などの設定が曖昧なまま、旅が続いているように思うのです。

広大で地平線まで見えるような世界を、たいした装備も持たない少女が徒歩で旅することは、過酷極まり無いことなはずなのに、この世界のルールと限界(=死)が説得力を持って提示されないので、服が汚れたりする場面を見せられても、あまり大変に、切実に思われません。

イゾクというアスナたち地上の者を忌み、殺そうとするものたちも、アスナたち地上のものを追うシンを含めたアガルタに生きる人々も、彼らのアスナを殺そうとする意志とその背景にあるルールが、しっかりと徹底して描かれず、また、窮地を、曖昧なままの超常的な力の発動や感知で解決したりするので、死への距離感がつかみづらく、せっかくの見せ場となるべき場面が、その説得力と切迫感を失ってしまっているのように思いました。

結果として、映画版ナウシカやラピュタに比べて流血描写などは多いのに、イゾクに狙われ何度も殺されそうになっているのに、そうした理由で、旅をして目的の地へたどり着いても、やっぱり達成感が弱く感じられてしまう面があるように思いました。この点は非常にもったいないと思います。

宮崎作品と比べるな、という意見も当然のようにあると思いますし、新海さんの大ファンである僕自身も、予告トレーラーなどの公開後に多く見られた、宮崎作品っぽい点をして、ただジブリっぽいとの意見で作品を断じることは、嫌です。

ですが、ここまで「っぽい」と、やっぱり、意識的にせよ、無意識的にせよ、ジブリのことが浮かんで来ちゃったり、比べてしまうのも事実です。声優に島本須美さんが配されていたりと、新海さんとしては意図してジブリっぽいと言われるような要素を詰め込みながら、自分の作風で消化して、違った答えを提示したのだと思いますが、それが上手くいってるかは正直あまり肯定的に言えません。

ただ、ジブリっぽいという「とっかかり」で、新海さんを知らなかった層が、新海さんの作品とその世界に触れるきっかけとなれば、それは良いことだと思います。

さて、なんだかんだ否定的なことが多くなりましたが、ここからは個人的に良かった点とかも交えて。

ラストにモリサキが妻であるリサを蘇らせようとする場面には、やはり気持ちを揺さぶられました。
喪失を受け入られない大人、モリサキがリサを蘇らせることの等価交換として、アスナの肉体を供する場面。
歪んでいると感じられる点もあるかと思いますが、作中の人物の中で、もっとも願いと行動原理がはっきりとしているモリサキだからこそ、彼の決断が呼び起こした事態には切迫感もそれなりに感じられ、旅の果てを緊迫感を持って見ることが出来ました。

モリサキの願いを聞く神のデザインも、マンガ版ナウシカのドルク皇弟とかを思い起こさせましたが、不気味で秀逸。

「死んでしまった人よりも、生きている人の方が大事」という、シンの力強い言葉、誰にでも訪れる喪失というテーマ。それを受け入れられない大人、モリサキ。

妊婦の先生やアスナの両親の過去の情景。ケツァトルに運ばれる際、飲み込まれ、ケツァトルのお腹が妊婦のようになること、アスナの「もう生まれなきゃ」という台詞等々、生へのイメージも良かったです(だからアスナの母がどういう人かという背景について、もう少し描いてほしかったという点も)。

画面も相変わらず美麗で緻密。

前作『秒速5センチメートル』では、現実世界を舞台にしていたことと、動的な物語ではなかったこともあって、世界を切り取ったかのような描き込みまくった美しい一枚絵というのが印象に残った人も多いと思いますが、『星を追うこども』は前作に比べてアニメとして動きまくっていることと、ファンタジーな異世界の場面が多いので、そうした背景の一枚絵ではなく、動きの中で、世界を見せようとしていると思いました。
好みの問題もあるかもしれませんが、いずれにせよどちらも美麗です。
空や光の描写に加えて、今作では水や涙にナウシカの漿液のような液体の描写にも力が入っていました。

主題歌も好きです。
ただ、毎回すばらしい音楽を提供してくれる天門さんですが、今回のはちょっと大仰かも?と感じたりもしました。ですがこれは、淡々とした前作が好きだった僕の好みの問題でしょう。

そして、父を亡くしたアスナに会いに来たというシュン、アスナを守るためにシュンが怪我した右腕、生死の門までアスナたちを導いた右腕の無いケツァトルと、物語の根幹に関わる部分について、あれこれと考えるのもいいと思います。父を亡くしたアスナと、こどもを持たないモリサキの関係とか、星を追うこどもという意味も・・・。

と、ここまで長文となり、色々とあれこれ感想を連ねましたが、これだけ書いたのは、やっぱり、そうせずにはいられない魅力を、一ファンである僕が、強く感じているからでしょう。

なんだかんだ言いつつも、それでも、それでも僕は、新海さんの作品を、きっと明日も明後日もその先も、やっぱりどうしようもなく待ち望むんだと思います。

 

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