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『星を追う子ども』を見てきたので、レビューというか、感想を。

昨日、5月7日、個人的に大好きな新海誠さんの最新映画である『星を追う子ども』を見てきました。

公開前から誰もが感じていたであろう、あまりにもジブリでジブリな雰囲気にとまどっておられた方も多く、新海さんの作風が変わってしまったのでは?
・・・という声もあったようですが、内容は今までの作品同様、「喪失」をテーマにしたもので、新海節はそのまま。その点は心配しないでいいと思います・・・が、大好きな新海さんの作品であるからこそ、個人的に言いたいことも色々と。
なので、今回はその感想を書きたいと思います。

ちなみにおもいっきり内容に触れておりますので、ネタバレがいやだという方は、以下の感想は、見ないことをおすすめします。

さて、公開初日と言うことで、映画館はほぼ満席。
いやがうえにも期待は高まり、緊張と期待の入り交じった気分のまま、物語が始まるのを待ちました。

暗いスクリーンが徐々に明るくなり、主人公の女の子、渡瀬明日菜(以下アスナ)が山の中のレールに耳をつけている場面が映し出され、物語はスタートします。

開始から約十分くらいは、このアスナが山の中を駆けたり、家に帰ったり、学校に行ったりする場面が描かれ、観客は、彼女が住んでいる町のだいたいの規模などとともに、彼女が山に秘密基地らしきものやお気に入りの場所を持っていたり、父親をすでに亡くしていたり、仕事が忙しい母親とはあまり一緒にいられなかったり、勉強や家事もしっかりできるけど、学校ではあまり友だち付き合いが出来ていないことと、そんな彼女の心の拠り所の一つが鉱石ラジオであることなどが分かると思います。
説明台詞やモノローグなどではなく、画面で主人公の背景を理解させるのは、結構よくできてるなぁと思いました。

この坦々と描かれるアスナの日常が、一匹の獣と少年の出現によって大きく変化しだします。

いつものように秘密基地に向かう途中の鉄橋で、アスナは大きな獣と遭遇するのです。学校の先生から熊が出ると言って注意されていたものの、それはアスナにとっても、そして観客にとっても、突如として現れたこの世ならざるもの感いっぱいのもの。
恐怖に立ちすくむアスナですが、そこにまた突如として少年が登場。アスナを物語の騎士のように守り、傷を負いながらも獣を倒したあと、高い高い鉄橋から飛び降りる離れ業をやってのけるいきなりの展開に、少々唖然。

その後、目を覚ましたアスナは、獣から右腕に傷を負わされたシュンと名乗る少年に、自らのスカーフで手当てをし、言葉を交わすのですが、地下世界「アガルタ」から来たというシュンは「僕は君に会うため生まれてきたのかも知れない」と言うカヲルくんばりの台詞を吐いたり、「祝福をあげる」という言葉とともにいきなりアスナのおでこにキスをしたりという展開に、初々しくいいシーンだなと感じる一方で、またも少々唖然としてしまいました。

アスナと別れたあと、星に手を伸ばしたシュンは、観客に示唆されていたように、死んでしまいます。
そのことを知らないアスナは、シュンと再会しようと秘密基地やお気に入りの場所に向かったり、彼の姿を探すのですが、願いはかなわず、寂しい気持ちを抱えていきます。そして、その後、彼女は自分のスカーフを腕に巻いた少年の死体が見つかったことを、連絡を受けた母親から聞かされ、大きなショックを受けます。

寂しく悲しい気持ちを抱えたままのアスナでしたが、産休となる担任の先生の代わりに来た森崎竜司(以下モリサキ)が、イザナミとイザナギの話を授業で述べた際、同じような地下世界・・・黄泉の国、そして死者の復活の伝承が世界中で語り継がれでいるとして、多くの例の一つに「アガルタ」を挙げます。

シュンへの想いを断ち切れないアスナは、勢い、放課後にモリサキの自宅を訪ね、そこで彼が研究している「アガルタ」のことや、彼の望み、そしてアスナにも生き返らせたい人でもいるのかい?と問われ、とまどいます。
モリサキからいくつかの興味深い事実を教えられたものの、アガルタへも、そしてシュンへ到達する術も持たない普通のこどもであるアスナ。しかし彼女は、帰宅後に、自分のお気に入りの場所に「鉱石」の光が瞬いているのを目撃するのです。

シュンだ!・・・そう思ったアスナは山を駆け、お気に入りの場所へ向かうのですが、そこにいたのはシュンにそっくりの少年、シンでした。
シンをシュンだと思うアスナの勘違いもあり、かみ合わない二人の会話は、いきなり現れた攻撃ヘリと三人組の特殊部隊(アスナには分からないが、観客にはそのリーダーがモリサキだと想像にたやすい)によって中断を余儀なくされ、追い詰められたシンは、シュンが鉄橋からアスナを抱えて飛び降りたように、アスナを抱えて、崖下へと飛び降り、地下世界、アガルタへと向かいます。

シュンが記憶喪失にでもなっているのかと疑ったりして彼を追うアスナと、地下世界への扉を探し、シンたちを泳がせながら追うモリサキたち。アガルタへの通路になる洞穴で、鉄橋で遭遇したような大きな獣と再びまみえ、それが古の神々が地上の汚れた大気に触れ、変化してしまったものとシンから教えられるアスナ。
シンとアスナは獣相手に窮地に陥るも、追いついたモリサキたちが獣を容赦なく始末することで一難去りますが、また一難。

アガルタへの鍵となる石(クラヴィス)をよこせよ!だめだ!とやり合いながらも、アスナを人質にしたモリサキが、彼女とともに扉の中へ。ここでモリサキがアガルタを調査する秘密組織の一員としての任務を事実上放棄して、特殊部隊の二人を置いてけぼりにしながら、扉が閉じようとするのですが、呆気にとられる特殊部隊員と違い、隙をうかがっていたシンは、その間隙を縫って扉の内へと滑り込みます。

閉じた扉の内側で再び対峙するシンとモリサキ。人質となったままのアスナ。

しかしここでモリサキは、あっさりとアスナを解放。
自らもマスクを脱いで、モリサキであることをアスナにも示します。

死んだ妻を蘇らせるという個人的な目的があるモリサキにとって、その大きな難関の一つであったアガルタへの侵入を、組織を出し抜いて行うことに成功した以上、シンとむやみに敵対することは無いと判断したのでした。

対してシンも、アガルタは入るのは難しいが出るのは簡単・・・なので勝手に出ろとばかりに、モリサキとシンを放って帰って行きます。

こうして残ったモリサキは自分の目的のために、そしてアスナもモリサキとともに、アガルタの深部へと、茫漠たる光景の広がる異世界での旅が始まるのですが・・・。

と、めっちゃ長くなりましたけど、ここまでが大体前半となります。

改めてこうして文字で書きますと、日常の中に突如として現れた異物によって、アスナは、非日常の世界へと誘われ、大きく物語が動いて、すごい展開になっているように見えるのですが、劇場で見ている時には、物語が動いている、始まった、始まっている!という感を受けることは、個人的にあまりありませんでした。

それは、唐突感、もっと具体的に言うと、登場人物も含めた物語や世界の「説得力」を、僕があまり感じることが出来なかったからだと思います。
特に後半の旅全体も含めて、主人公であるアスナの行動に対する原理が、説得力に弱いのです。

茫漠たる異世界・・・「命」を狙うような人外のものたちもいるような未知の世界で、一人母親を残してまで、アスナが旅立つことに対する説得力が弱いと感じるのです。

これを個人的により強めていると思われるのが、「ジブリっぽさ」です。

全体的な絵柄はもちろん、序盤から現れるミミという、まるでナウシカのキツネリス「テト」のような生き物とその設定。

飛行石さながらのクラヴィス。

マンガ版ナウシカやもののけ姫や、ラピュタなど、それらをあまりにも彷彿とさせすぎる情景や生き物たち。

先生の顔をしながら、秘密組織の一員で、「中佐」などと呼ばれたり、メガネかけていたりとか、やはり「ムスカ」的なモリサキ等々・・・。

正直、言えばきりがないほどで、どうしてもジブリ作品・・・宮崎作品がちらちらと頭をかすめるのです。

で、鑑賞中も自然とそうした宮崎作品が頭に浮かぶものですから、没入感が薄れ、同時にそれらと知らず知らず対比しちゃったんですね、僕は。

前半の登場人物たちの行動原理やその説得力なんか、クラヴィスが飛行石チックだし、少年と少女の邂逅と、未知なる世界への旅ということもあって、自然とラピュタなんかと対比しがちで、どうしても疎く見えちゃうんです・・・これはもう、ほんともう、ラピュタがあまりにもうまいから仕方ないんですけど、やっぱりもったいない。

空から落ちてきた謎の少女シータを受け止めた、炭鉱で働く少年パズー。自分の父親がラピュタを見たと言ったものの、嘘つき呼ばわりされ死んだという背景を持つ彼が、それぞれの思惑で飛行石を狙うドーラ一家に軍、そしてムスカらからシータを守ろうとしながら、敵であったはずのドーラ一家と手を組む流れ、そしてそこからラピュタを目指す彼の行動原理と説得力に対して、先に述べたように、母親を残してまで、危険な未知の世界の深淵へ進もうとするアスナのそれは、あまりにも脆弱に感じてしまうんです。

ですから、アスナは何をしたいのかがよく見えてこなかったり、共感しにくいことになってしまってて、自ずから、登場人物たちの魅力も減じてしまうことになっているように思います。

また、世界観の説得力も、見た目が非常に似てるナウシカ(マンガ版含む)やラピュタとかの宮崎作品に比べると、やっぱりかなり弱く感じられました。

このアガルタの現実という説得力を持つ描写がないので、真剣さがあまり伝わってこないのです。

『星を追うこども』でも宮崎作品や、ある意味ではそれらを上回っているとも言える美麗な背景美術とともに、地上世界、並びにアガルタという世界やそこに生きる人々、そしてその生活の一部なども描かれているのですが、どうしても表層的で、特にアガルタという滅び行く世界のリアルさというか距離感が伝わりにくいのです。

たとえばナウシカでは、滅び行く世界とそこに生きる人々の問題がしっかりと描かれているため、「この世界はこれこれこうなってて、こうすれば死ぬ、こうなれば死ぬ」ということが観客に提示されている分、その世界はファンタジーでありフィクションでありながら、また、超常の力が存在しながらも、現実により近い説得力を持ち、その滅びや死と向かいあっている世界に生きる人々の生活感や、命の重みや、必死さも増して感じられます。

対して『星を追うこども』では、背景美術や絵としてのアガルタ(および地上世界)は美しく緻密に描かれているものの、世界のルールとその限界・果て・・・滅びへと向かう世界での死への距離感とでもいうべきものがつかみにくく、どこまでいったら、どこまでしたら、この世界の人は死ぬのか、ルールを破ればどこまで本気で殺し殺されるのかというものや、ラピュタで言えば飛行石の力のような、フィクションによくある奇跡的・超常的な力などの設定が曖昧なまま、旅が続いているように思うのです。

広大で地平線まで見えるような世界を、たいした装備も持たない少女が徒歩で旅することは、過酷極まり無いことなはずなのに、この世界のルールと限界(=死)が説得力を持って提示されないので、服が汚れたりする場面を見せられても、あまり大変に、切実に思われません。

イゾクというアスナたち地上の者を忌み、殺そうとするものたちも、アスナたち地上のものを追うシンを含めたアガルタに生きる人々も、彼らのアスナを殺そうとする意志とその背景にあるルールが、しっかりと徹底して描かれず、また、窮地を、曖昧なままの超常的な力の発動や感知で解決したりするので、死への距離感がつかみづらく、せっかくの見せ場となるべき場面が、その説得力と切迫感を失ってしまっているのように思いました。

結果として、映画版ナウシカやラピュタに比べて流血描写などは多いのに、イゾクに狙われ何度も殺されそうになっているのに、そうした理由で、旅をして目的の地へたどり着いても、やっぱり達成感が弱く感じられてしまう面があるように思いました。この点は非常にもったいないと思います。

宮崎作品と比べるな、という意見も当然のようにあると思いますし、新海さんの大ファンである僕自身も、予告トレーラーなどの公開後に多く見られた、宮崎作品っぽい点をして、ただジブリっぽいとの意見で作品を断じることは、嫌です。

ですが、ここまで「っぽい」と、やっぱり、意識的にせよ、無意識的にせよ、ジブリのことが浮かんで来ちゃったり、比べてしまうのも事実です。声優に島本須美さんが配されていたりと、新海さんとしては意図してジブリっぽいと言われるような要素を詰め込みながら、自分の作風で消化して、違った答えを提示したのだと思いますが、それが上手くいってるかは正直あまり肯定的に言えません。

ただ、ジブリっぽいという「とっかかり」で、新海さんを知らなかった層が、新海さんの作品とその世界に触れるきっかけとなれば、それは良いことだと思います。

さて、なんだかんだ否定的なことが多くなりましたが、ここからは個人的に良かった点とかも交えて。

ラストにモリサキが妻であるリサを蘇らせようとする場面には、やはり気持ちを揺さぶられました。
喪失を受け入られない大人、モリサキがリサを蘇らせることの等価交換として、アスナの肉体を供する場面。
歪んでいると感じられる点もあるかと思いますが、作中の人物の中で、もっとも願いと行動原理がはっきりとしているモリサキだからこそ、彼の決断が呼び起こした事態には切迫感もそれなりに感じられ、旅の果てを緊迫感を持って見ることが出来ました。

モリサキの願いを聞く神のデザインも、マンガ版ナウシカのドルク皇弟とかを思い起こさせましたが、不気味で秀逸。

「死んでしまった人よりも、生きている人の方が大事」という、シンの力強い言葉、誰にでも訪れる喪失というテーマ。それを受け入れられない大人、モリサキ。

妊婦の先生やアスナの両親の過去の情景。ケツァトルに運ばれる際、飲み込まれ、ケツァトルのお腹が妊婦のようになること、アスナの「もう生まれなきゃ」という台詞等々、生へのイメージも良かったです(だからアスナの母がどういう人かという背景について、もう少し描いてほしかったという点も)。

画面も相変わらず美麗で緻密。

前作『秒速5センチメートル』では、現実世界を舞台にしていたことと、動的な物語ではなかったこともあって、世界を切り取ったかのような描き込みまくった美しい一枚絵というのが印象に残った人も多いと思いますが、『星を追うこども』は前作に比べてアニメとして動きまくっていることと、ファンタジーな異世界の場面が多いので、そうした背景の一枚絵ではなく、動きの中で、世界を見せようとしていると思いました。
好みの問題もあるかもしれませんが、いずれにせよどちらも美麗です。
空や光の描写に加えて、今作では水や涙にナウシカの漿液のような液体の描写にも力が入っていました。

主題歌も好きです。
ただ、毎回すばらしい音楽を提供してくれる天門さんですが、今回のはちょっと大仰かも?と感じたりもしました。ですがこれは、淡々とした前作が好きだった僕の好みの問題でしょう。

そして、父を亡くしたアスナに会いに来たというシュン、アスナを守るためにシュンが怪我した右腕、生死の門までアスナたちを導いた右腕の無いケツァトルと、物語の根幹に関わる部分について、あれこれと考えるのもいいと思います。父を亡くしたアスナと、こどもを持たないモリサキの関係とか、星を追うこどもという意味も・・・。

と、ここまで長文となり、色々とあれこれ感想を連ねましたが、これだけ書いたのは、やっぱり、そうせずにはいられない魅力を、一ファンである僕が、強く感じているからでしょう。

なんだかんだ言いつつも、それでも、それでも僕は、新海さんの作品を、きっと明日も明後日もその先も、やっぱりどうしようもなく待ち望むんだと思います。

 

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コメント

私は星を追う子ども見て、正直愕然としました。
ストーリーがめちゃくちゃで、書かれている通り、主人公の周りに左右される、何も主体性の無い感じ。
更にアガルタに来た理由は「寂しかったから」という謎さ。

私は新海を批判したいなんて思っていないし、
彼の作品は今まで見てきて、それなりに楽しんでいました。
ただ、今回の作品は、
新海誠作中で最もレベル低いんじゃないか?
と個人的に思いました。
本当に残念です。

投稿: Oda | 2011年5月 9日 (月) 20時47分

ほぼ、同意見です。
予告でジブリ作品の間違いでは?
と思うほどでした。

登場人物のバックボーンが曖昧なまま物語がどんどん進み、作品の3分の1まできたところで、この作品は前編・後編と個人的には2部作にしても良かったのではないかと思えるぐらいで、新海監督の良さが出し切れなかったように思えます。
色々な事を掻い摘んで創り上げた作品になってしまってましたね。。。
大変失礼ですが、本編が進むにつれ別の喪失感が私の中で大きくなり、モリサキが視力を無くした時には、ムスカの「目がー目がー!!」の姿が脳裏をかすめ、笑いを堪えるのに必死でした。スミマセン。

それと、毎回感動させられる空と雲の絶妙な色のコントラスト。今回はその映像が流れる度に大きく流れるBGMが不要だったようにも感じられます。ストーリーとBGMの着地点が異なっていたのか、ここでこの音量のBGMはどうなの??と何度も思い、おかげで本編よりもBGMのタイミングが気になっていたぐらいです。

きっと、ジブリ作品を私が意識しすぎたせいなのか・・・とにかく不完全燃焼と言ったところです。

私の周りにこの作品を知っている人がいないので、思っていたことを文章で表現してもらい、ちょっとスッキリ(?)しました。


投稿: mimi2929 | 2011年5月13日 (金) 01時09分

タイトルの「星を追う子ども」ですが、なぜ「子供」ではなく「子ども」と書いてあるのかが気になります。確かに「供」は「お供え物」とか「大人の付随物」というマイナスイメージがありますが、そんなふざけたマイナスイメージに負けず「子供」と書いてほしいです。これでタイトルが「星を追う子供」であれば文句はありません。

投稿: | 2011年5月13日 (金) 19時06分

星を追う子どもを観てきましたが個人的には荒削りな面も多々ありますが非常に満足できる出来でした。
自分が思うに、これは決してファンタジーではないんですよ。あくまでも思春期に誰もが抱く悩みを題材にしたいつもの新海ワールドなんです。ファンタジーは秒速5センチメートルの電車と同じ主人公の心情を象徴する小道具に過ぎないんです。
秒速5センチメートルが少年を軸とした内面を中心に言葉で表現される分かりやすい構成だった分、少女を軸とした外を中心に行動で表現される分かりにくい構成なのでただのファンタジーと捉えてしまうとただのチープなジブリに見えて危険な訳です。
秒速5センチメートルが思春期に抱える悩みからついに解放されなかった少年を描いたのと対比として、解放され大人へと変わる少女を描いた物語なわけですね。
だからこそ題名も星のような手には届かないものを求めてしまうのは子どもなのだと強烈に呈示しているわけです。先生なんかは解放されずいつまでも星を求めてしまう子どもの象徴ですね
そう観ていくと、主人公が旅立ったのは思春期に抱える悩みという幻想を地下世界という幻想(=ファンタジー)が解決してくれるのではという思春期ならではの行動なのがよくわかります。
そして祝福という言葉、これがそんな悩みを受け入れられたかどうかを象徴するキーワードなわけです。シュンが死を受け入れて死ぬわけですが、生死という思春期ストライクな悩みをアスナも受け入れて欲しいという暗示なのです。母という大人の象徴が祝福と言う言葉を使っていることも重要ですね。
そして最後にアスナが寂しかったんだと言う場面、ここがまさにアスナが受け入れたことを表します。その寂しさが人々の喜怒哀楽を支える重要なものだと気づくんですね。
その寂しさを祝福と捉えるアスナと呪いと捉えるシン、ここで秒速5センチメートルと繋がるわけです。
そして地上という現実を選び帰っていくアスナと現実が受け入れられず地下世界という幻想に留まる先生という対比があり、その狭間にいるシンがどうなったのか、描かれていないわけです。
内向的な少年では電車という内面世界の象徴を(エヴァなんてモロですね)その対比として外向的な少女ではファンタジーという外の世界の象徴を選んだわけですが、絵もそれに合わせて静から動へと変わったためにジブリっぽさが出てしまった訳ですね。そして象徴に過ぎないからこそ新海誠監督もジブリっぽくなってしまっと公言して笑い飛ばしているわけです。
やはりこの作品を観る前に秒速5センチメートルを鑑賞しその吐き出したい感情を溜め込んでから観に行く作品だと思いました。

投稿: | 2011年5月25日 (水) 17時46分

私はジブリが好きで、予告映像がジブリに似ていたために見に行ったタイプです。新海監督の作品を見たことがなく、どちらかというともののけ姫や、千と千尋の神隠し、耳をすませば等のイメージを期待して映画を見たので、とても満足感がありました。ジブリを好きと言ったくせに問題かもしれませんが、ラピュタを見たことがなかったことも、ムスカを意識することなく見れたので、良かったのかもしれません。私は個人的に、疑問や見えない深みをもやもや〜っと残して終わる物語の描き方が好きなので、星を追う子どもは、すっきりと終わるジブリ作品よりも私好みでした。作品上では深い話はあえて描かず、裏設定等の本で知ってから、もう一度作品を見て、なるほど!と感動できたら、私にとって最高なのですが、そういった本が出ない(販売されていて買ったものは少し物足りなかった)のが残念です。ジブリとの比較みたいになってしまいますが、ジブリの良いところだけが似ていて、あまり好きでないところが似ていないという、私にとってはストライクな内容でした。これを機に、ジャンルが少し違うということもわかった上で、新海監督の他の作品も見てみたいと思います。

投稿: serene | 2011年6月21日 (火) 00時10分

100%と言っていいぐらい同意見です。
また、自分の中で何か引っかかっていた思いがレビューを読んだことで気づかされ、スッキリしました。
新海監督への愛がひしひしと伝わってくる、魅力あるレビューをありがとうございます。

投稿: duck | 2015年2月10日 (火) 22時41分

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